かつてヴィルヘルム・ケンプというドイツのピアニストがいました。
1895年ドイツに生まれ、1991年イタリアに没した彼は非常に長いキャリアを誇り、世界中の音楽愛好家が彼の演奏に耳を傾けていました。

彼の奏でる音楽はどれもしみじみとした味わいがあり、コンサートホールでは聴衆が涙ぐむ風景も見られたと言われています。

しみじみする音楽といえば、まさにこれ。ケンプの奏でるバッハがCD化されています。
この音の佇まいはクラシック音楽が行き着く境地の一つの極地だと言ってもよいでしょう。

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ケンプの演奏は一体どこがどんなふうにしみじみするのか

試しに、バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」をお聴きください。



えも言われぬ間のとり方がありますね。

「主よ、人の望みの喜びよ」は子どもでも弾ける曲。
ですがケンプのような教養豊かなピアニストが奏でるとまるで別世界のような趣が・・・!

慶應義塾大学教授・許光俊氏は著作『世界最高のピアニスト』でケンプの奏でるバッハをこう評しています。
ケンプは若い時からバッハを特に好み、もともとピアノのために書かれたわけではない作品を、自分でピアノ用に編曲して演奏していた。ケンプの手にかかると、もともとは素朴で単純な音楽が、すばらしく洗練された味わいに返信する。ひとつひとつは2、3分という短い曲だが、どれもが深い情感に満ちた、祈りのような音楽に昇華してしまう。まことに、名人の技たるや恐るべし。
この記事の末尾でご紹介しているCDにはそのバッハだけでなく、ヘンデルやグルックといったバッハと同時代かすこし後の世代の作曲家の作品が収録されています。

いずれもリストやブゾーニのように技巧をひけらかすような曲は一切ありません。
大きい音や速いテンポといった外面的な効果を狙った曲も一切ありません。
ですから刺激的な音楽を好みそうな方は絶対に手にしてはいけないCDです。

反面、音楽に瞑想とか人間の内面性――孤独とか内省とか――を期待している方にとっては、ケンプがあなたのためにこそ演奏しているかのような思いにとらわれる、そういうCDになっています。

どこか寂しげでもあり、かといって泣き叫んでいるわけでもなく。
喜ばしげな表情の中になぜか哀しみの色が浮き上がる・・・。
大言壮語を避け、たとえひどい苦しみを味わったとしても静かな微笑みをたたえている。
老紳士ケンプが奏でるのはこういった音楽です。

ピアノから生まれた音は、演奏されたその瞬間に空気中に消え去ってしまう儚いもの。
しかしあなたがその「音」に深い意味を感じ取り、ずっと忘れることのない思い出となったとしたら・・・、それが演奏家がこの世に存在する意味です。

仮にこの記事冒頭でご紹介したケンプの演奏に何かしら共感するところがあった方は、音楽に「心」を感じ取ったということです。ぜひともバッハのコラールなど懐かしい曲に耳を傾け、しみじみとした思いに浸って頂ければと思います。