NHK朝ドラ第100作「なつぞら」。

広瀬すずさんが主演のこのドラマ、視聴率、評判ともに上々のようです。
私もNHKオンデマンドでちょっと遅れ気味ながらもなんとかタイムシフト試聴しています。

さて主人公なつ(広瀬すず)は高校では演劇部に入部。「白蛇伝説」という物語を演じることになります。

ところがなつは先生からダメ出しの嵐! 「台詞に魂がこもってない」と何度もやり直しを命じられます。

広瀬すずさんも女優が本業でありながら「演技のヘタな高校生を演じる」ことになりました。

しかしなぜこんなに厳しいダメ出しを・・・。

私なりに考えて(この演劇部の話がどういう結末なのかまだ見届けていませんが)自分なりの考えを書きとどめておきます。

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演技や音楽は「他のなにか」を表現すること

私はこのようにツイートしました。



私自身はヴァイオリンを弾きます(最近ではモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」に取り組んでいます)が、音楽を演奏しているうちに分かってきたのは、演劇なり音楽なり、それは作者が何らかのメッセージを伝えるための仮託=入れ物であるということ。

つまりメッセージが空っぽならば、どんなに技巧が達者でも「絢爛とした空しさ」に堕してしまうということです。

大指揮者・小澤征爾さんの師匠である斎藤秀雄さんはこのように講義で述べています。
芸術というのは(中略)「一つの素材でもって全然違うものを作り上げる」ということ。で、その素材というのはなるべく簡単な方がよろしい。なるべく単純なもので全然素材と違うものを作り上げる。
(中略)
音楽会へ行って、音を聴いた時にその音を意識できるんだったら、それはまだ芸術品じゃない。だからヴァイオリンを弾いてヴァイオリンの音だけを聴かせると思っていれば、その人は芸術家じゃなくってヴァイオリン弾きだということになる。私はヴァイオリンを弾くけれど、ヴァイオリンという道具を使って音楽を、違うものを聴かせよう、聴衆に何か印象を与えようと思ったときに、そこに芸術品が生まれてくるのではないかと思うんです。
(『斎藤秀雄講義録』より)

また、小澤征爾さんの母校であり、斎藤秀雄さんも教鞭をとった桐朋学園大学の教授であり自らもヴァイオリニストであった江藤俊哉さんもこのように述べています。
ヴァイオリンを上手に弾けるのがヴァイオリニストで、音楽家というのはさらにそれに音楽的表現を加えて弾ける人で、芸術家というのはその音楽に魂を込めて弾ける人だ。
(川畠成道『耳を澄ませば世界は広がる』より。川畠さんは江藤俊哉さんの弟子にあたります)

すなわち、演奏技術なり演技力なりを用いて何かしらの「メッセージ」を伝えることができてこそ、一流の舞台芸能の水準に到達する――、そう両者は訴えているように思えます。
もちろんお客さんをうならせる表現をするためには、舞台に立つ側も人間や社会、歴史など様々な事柄への深い洞察は必須。
だからこそ天才少年の演奏や演技は技術的には問題がなくても内容的には子供の域を脱しえないのです。

これは演奏家や俳優に限った話ではありません。
作曲家も何か伝えたい「メッセージ」があって音符を使った表現をしているものです。
例えばスメタナの「モルダウ」も川の流れや煌めきを表現しているように見えて、実際には「私たちチェコの国はこんなに美しいんだ」ということが言いたいわけです。
それをストレートに「美しい国・チェコ。最高かよ!」などと言ってしまったら芸術になりませんから、長々とオーケストラのいろいろな響きを使って川の様子を描写したのでしょう・・・。

同じことは「表現」すべてに当てはまるはずだというのが私の考えです。
医療事故を扱った小説ならば作家は臓器がどうのこうのという話をしたいわけではなく、人命の尊さを伝えたいために病院を舞台にしているだろうと考えられます。

アイドルのやっていることをパフォーミングアーツととらえるならば、彼ら(彼女ら)が舞台で歌ったり踊ったりしているのも、何も音程の正しさやジャンプ力を誇りたいわけではなく、仲間とともにステージを作ろうとする絆なり情熱なり、つまりは青春という限られた時間の輝かしさを歌や踊りに仮託していると言えるでしょう。

おわりに

以上は私なりにこれまでの経験を踏まえての考察となります。
なつがダメ出しをされたのも、彼女の言葉があくまでも「台詞を一応は正確に言えている」というレベルだったからであって、なつのこれまでの人生経験を踏まえての言葉の響きではなかったからなのでしょう。
台詞の意味、物語に込められたメッセージを自分なりに咀嚼したうえでの表現ではないからこその叱咤だったと考えれば(自分としては)腑に落ちます。

この記事に書いたような考えは「なつぞら」を見る以前からなんとなく感じていたことですが、このドラマに触発され、現時点の考えとして粗っぽいところがあることは承知で記事としてまとめておきたいと思います。(読みにくくて申し訳ありません。)


追記:記事中に「絢爛とした空しさ」という言葉が出てきますが、これはカラヤンの演奏を聴いた政治学者・丸山眞男さんの感想です。つまりカラヤンの演奏はゴージャスだがただそれだけで、作曲家のメッセージがまるで伝わってこない、心の入っていない演奏だというのが真意です。