評論家・小林秀雄の代表的著作「モオツァルト」。

彼はこう書いて戦後日本のモーツァルト理解に大きな影響を与えました。

モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。
小林秀雄はこの例として『弦楽五重奏ト短調 K.516』の出だしの楽譜を引用しています。


確かにかなしい出だしになっています。

でも他にかなしい雰囲気の曲はないのでしょうか。補足すればもっとわかりやすくなるのに・・・。
というわけで、自分なりに「かなし」を思わせるモーツァルトの曲を並べてみることにしました。
イントロだけでもお聴き頂ければ、何がどうかなしいのかなんとなくご理解いただけるかと思います。

『ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 K.595』


気品のある出だしになっていますね。
1791年つまりモーツァルトの死の年に生み出された作品です。
「モーツァルトは今から迎えようとしている春が、自分にとって最後の春になると悟っていた」という観点から演奏されたり、解釈されたりすることが多いです。

『新古今和歌集』でもこのような歌が収められています。
またや見む 交野(かたの)のみ野の 桜狩り 花の雪散る 春のあけぼの(藤原俊成)
(意訳)また見られるだろうか、この素晴らしい桜の景色を。 ここ交野では、桜の花が雪のようにひらひらと舞い散る。 ああ春のあけぼのよ! 私はまた・・・?
実際には、交野=難(かた)いの意であり、藤原俊成は自分に再びこうした春が巡ってくることを断念しています。

モーツァルトの『ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 K.595』でもやはり冒頭の主題に似たような感情を盛り込んでいるように思えてなりません。

『クラリネット協奏曲イ長調 K.622』


こちらもやはりモーツァルトの死の年の秋に完成。未完の絶筆となった『レクイエム』の作品番号は626。こちらは622ですので、モーツァルトも自分が死ぬことを本当に分かっていたはず。
にもかかわらず明るい曲・・・。のようですが、どことなく秋風のような寂しさが漂っています。

モーツァルトの曲にどことなく哀調が漂っているのは、どうやら和音の使い方にモーツァルト節とでもいうような癖があるらしく、同じような和音の使い方をしている作曲家にヨハン・シュトラウス2世が挙げられます。(彼のワルツ、例えば『芸術家の生活』も独特の哀感が漂っています。)

おわりに

モーツァルトの曲を2曲挙げることで、彼の作品の何がどんな風に「かなし」いのか、少しはわかりやすくなりましたでしょうか。
ただしこういうのはやはり自分でいろいろ曲を聴き比べてみたり、年齢を重ねていったりするとなんとなく分かってくるもの。(私も学生時代、なぜかモーツァルトが好きになれませんでした。)

この記事をお読みの方も、折に触れていろいろ見聞きしているうちにモーツァルトの素晴らしきが実感されてくると思います。


追記:この評論が書かれたのは敗戦直後。当時日本でオペラはほとんど上演されていませんでした。その後モーツァルトを論じた多くの評論家はそのことを指摘し、『フィガロの結婚』や『魔笛』などについて本格的に触れていないのが欠点であるという人もいます。とはいえ彼らも小林秀雄の評論をベースにしながら論考を深めていったのは事実。

そもそも万葉集とモーツァルトを「かなし」で結びつけるという発想自体がアクロバティックでありながらも本質を突いたもの。
小林秀雄の目はやはり鋭かったと言わざるを得ません。