演奏活動を開始して55年という長いキャリアをもつヴァイオリニスト、前橋汀子さん。

独特の歌いまわしに定評がある彼女の演奏を聴く機会がありました。その感想を書き留めておきたいと思います。

私が聴いた演奏会は2019年2月16日、東京都小平市のルネこだいらでのリサイタルです。

プログラムは

エルガー:愛の挨拶
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 op.47「クロイツェル」
ドヴォルザーク(クライスラー編):わが母の教え給いし歌
ドヴォルザーク(クライスラー編):スラヴ舞曲 op.72-2
クライスラー:ウィーン奇想曲
クライスラー:愛の喜び
マスネ:タイスの瞑想曲
サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ op.28
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン
でした。
(アンコールにハンガリー舞曲、アヴェ・マリアなど。)

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前橋汀子さんの演奏を聴いた感想

前橋汀子さんは1943年生まれで小野アンナ、斎藤秀雄に師事。
その後ソ連に留学し、さらにアメリカ、スイスでも研鑽を積んでいます。

ソ連では特に厳しいレッスンを経験したらしく、その鍛錬の日々から培われた凛とした姿勢や年を重ねても優雅なステージマナーは音楽評論家・宇野功芳(故人)さんなど多くの著名人も魅了していました。

私が前橋汀子さんの演奏会に足を運ぶのは4~5度目ほど。
ではどんな演奏でどんな感想だったのかといいますと・・・。

ポルタメントに懐かしさを感じた

まず耳をそばだてるべきは、ポルタメント(ある音から別の音に移る際に、滑らかに徐々に音程を変えながら移る演奏技法で、短く言うと音のずり上げ、ずり下げ)を随所で使っていることです。

ポルタメントは19世紀生まれのヴァイオリニストたとえばミッシャ・エルマンなどが多く使っていましたが、今ではあまり耳にすることがなくなりました。
時代の移り変わりとともに聴衆の好みも、演奏家のスタイルも変わっていてしまい、2019年時点では第一線を走るヴァイオリニストでポルタメントを使っている人は見かけません・・・。

強いて言えば、1922年生まれのイヴリー・ギトリスくらいでしょうか。

確かにこれは使い方の難しい調味料のようなもの。
使いすぎると下品な響きになってしまい、すっきりとしたデザインの工業製品(たとえばアップル)に囲まれて生活している現代人からすれば違和感があるでしょう。

しかし前橋汀子さんはこの日のプログラムである『クロイツェル・ソナタ』しかりクライスラーやドヴォルザークの小品しかり、随所でポルタメントを使っていました。

「我が母の教え給いし歌」ではそれがちっとも嫌味にならず、むしろ懐かしさや哀しさを表現するうえでの隠し味になってしまいました。

「タイスの瞑想曲」で静まり返るホール

この日の最大の聴きものは「タイスの瞑想曲」でした。
もちろん前橋汀子さんの十八番。何十年と弾き続けている小品ではありますが飽きを感じさせず、情緒纏綿と歌いぬいていました。

たしかに技巧面では最近の若手ヴァイオリニストのほうが安定感があります。否定し得ない事実です。
しかし彼女には音楽を表現するための感情やイメージを内面にたっぷりと蓄えている。そのことを「タイスの瞑想曲」ではっきりと実感することができます。

このわずか4分の曲を聴くだけでも、チケット代の元は取れたといっても良いでしょう。
とにかく圧倒的な表現力に、ホールは静まり返っていました。(本当です。)

ソ連に留学、その後シゲティに師事した前橋汀子さん

この記事の冒頭にも書きましたが、前橋汀子さんはソ連留学ののちにアメリカ、そしてスイスではシゲティに師事しています。
シゲティはストラディヴァリウスではなくグァルネリを愛用していたことで知られています。
彼の弟子である前橋汀子さんもやはりグァルネリ――絢爛とした金ではなく、いぶし銀の魅力と言えば当たっているでしょうか――を使っているのは何かの縁でしょうか。

音楽を表現するうえで避けて通れないのは、音符を追いかけるだけではロボットと同じであり、音符の背後にあるはずの作曲家が抱いたイメージや作品に込めたメッセージを咀嚼して自分なりに解釈し、音として表現すること。

シゲティの芸風は技巧ではなく精神的な面に特徴がありましたが、おそらく前橋汀子さんとのレッスンでも作曲家のメッセージの重要さについては繰り返し教えたはず・・・・。
私が接して感じた前橋汀子さんの演奏からは、特に小品から作曲家が書き留めておきたかったであろう感情が伝わってきました。

おわりに

前橋汀子さんは55年という長いキャリアがありますが、もしかするともう一段高い表現へ行くのではないか、8月に無伴奏リサイタルが予定されているのはその現れの一端ではないか・・・。
技巧面というよりもむしろ精神面での一層の円熟が期待されます。

ぜひとも前橋汀子さんの演奏でバッハの「シャコンヌ」を聴いてみたいと思いました。


ご参考
前橋汀子さんの修行時代などについては、自伝が出版されています。
国交が回復して間もないころのソ連に留学するなど、時代を切り開いたパイオニアであったことが伺われる貴重な記録となっています。