ついに最終回を迎えたこのドラマ「いつかこの雨がやむ日まで」。今回も私なりの主観だらけですが、放送を見て感じたことを書きつづります。(以下、サスペンスドラマの結末などを含むネタバレがありますのでご注意ください。)

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(指導者を失った劇団員たちは、なおも進もうとする・・・。画像:FODよりキャプチャ。以下同)

ひかりの決断と生きること

最終回となった第8話。これまでの話が犯人の告白とともにある一点めがけて突き進んでいきます。

「ある一点」は私なりの感じ方ではありますが、そのポイントに向けて様々な「生き方」が表現されているように思われてなりません。

渡辺麻友演じるひかりを始めとするウミヘビの劇団員は、指導者を失って迷走するかに見えましたが、献杯のシーンに見られるように「ロミオとジュリエット」の成功を目指して一層稽古に打ち込んでいきます。

「ジュリエットを演じていることが生きている証」、そう語るひかりにかつて天竺は言いました。「お前の15年間の闇は神様からのプレゼントだ。輝かしい光のように人々を魅了することができる漆黒の闇だ。どこまでも深く堕ちてゆけ」

天竺から直々に言われた言葉をやすやすと忘れるひかりではありませんでした。何者かに突き落とされた足の怪我にも耐えて、彼女はジュリエットに没入します。

最終回ではこうした心の闇だけでなく、母親がオムライスを普通の味付けで調理できるようになったり、幸一郎が帰宅したり、國彦が千尋に「待ってます」と伝えたりと、失われた過去を将来に向けてもう一度築き直そうとする様子も所々で暗示されており、「雨がやむ」ことがどことなくほの見えるようで、絶望一辺倒ではないことに救われます。

ところが、天竺が言うところの「闇」は誰の心にもありました。
ストーカーだった和也の義兄・幸一郎の心にも、ひかりの兄・國彦にも、麻美の姉千尋にも・・・。この作品では、誰もが心の中のどこかに雨が降っているようです。
もちろん天竺の娘、芽衣にも・・・。

芽衣が父親に寄せる特殊な愛情、父親に近づく女性を排除しようとする歪んだ愛情はついにひかりに忍び寄ります・・・。15年前の殺人事件も、劇団で続いた不幸な出来事も芽衣の仕業でした! 芽衣はついにひかりを狙い・・・。

そこに駆けつけた和也が身を挺してひかりを守ります。
「本番出ろ! 約束守ってくれ。何を失っても、まだ歌うことだって、笑うことだって、何だってできるんだぞ。生きてる限り。その手で夢を明日を掴め、ひかり」
和也はひかりの身代わりとなり、命を落とします。(沙耶は二度、交際相手を失うことになりました。何か法に触れるような悪事を働いたというわけでもないのに悲しいことではありませんか。)

こうして全8話で構成されるドラマもいよいよ終幕が近づきます。
天竺要の遺作とも言える「ロミオとジュリエット」。
この作品ではおそらくすべての視聴者の予想を裏切り、ジュリエット=ひかりは「生きる」決断を下しました。

「私は生きる道を選ぶ。あなたが教えてくれたから。どんな絶望の先にも一筋の光はあると。これは終わりじゃなくて始まり。この命の限り、生き抜くための」

私にはこのドラマは、この一点、このセリフめがけて進んできたように思われてなりません。
天竺はひかりに絶望、恐怖、怒り、悲しみを説き、どこまでも堕ちてゆけと厳しい演技指導を施しました。
そのひかり自身、やむことのない雨に15年間耐え抜いてきた過去がありました。
「生きる」という言葉、たった3文字の言葉に重みを持たせるためには、順風満帆の役者ではなし得なかったはず・・・。涙の味を知り、心の暗闇を見つめ続けたひかり、愛する人を眼前で失ったひかりだからこそ「生きる」ことの意味を悟り、自らの言葉として舞台で表現できるのでした。

ああ、だからこそ――。
この場面を見たとき、私はなぜ「闇」という言葉が強調されているのか、一切のことが腑に落ちた気がしました。

私はこのドラマの感想を書く時、常に古典と言われる作品の例を引いています。
「生きる」ことを最後に持ち出した最終回では、やはり私はゲーテの「ファウスト」の終幕を思わざるを得ませんでした。

あらゆる学問を修めたファウストは悪魔メフィストフェレスと契約し、もう一度人生をやり直し、生きることの意味を探求する旅に出ます。
その果てに老境を迎えたファウストはある地の領主となり、盲目となります。それでも自分の命令のもとに治水工事を行う労働者たちの生活を思い描き、こう独白します。

外では海が岸の縁まで荒れ狂おうが、
中の土地は楽土となるのだ。
潮が力ずくで土を噛み削ろうとしても、
万人が力を協(あわ)せて急いで穴をふさぐだろう。
そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
それは叡智の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活とを享(う)くるに値する」
(引用は新潮文庫「ファウスト」高橋義孝訳より)

こうしてファウストは民衆がともに労働しつつまめやかな歳月を迎える光景を目にすることを願い、「時間よ止まれ! お前は美しい」と言って絶命します。かつて享楽と放蕩の限りを尽くしたファウストは、その不毛な連鎖から抜け出し、人々の働く姿を思いやり、ついに生きることの意味を悟ってこの世を去るのでした。(その後ファウストはかつて自分が見捨てたはずの女性に魂を救済されます。)

「生きる」ことは、普段の私たちの生活ではなかなか実感することがないかもしれません。
しかし、文芸作品なり、テレビドラマなりといったフィクションを通じて、あくまでも作り物の世界ではありながら、その虚構を通してしか分かりえない「何か」を教わることができます。
その「何か」を失うことは、人間らしさを失うことと同義ではないでしょうか。

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(ジュリエット=ひかりは生きることを選んだ)

渡辺麻友の演技の総括~私なりの視点~

さて、渡辺麻友の演技についても総括しておきたいと思います。
このドラマ全般に言えることですが、北園ひかりは過去の重みを背負って生きる定めを幼くして負わされてしまいました。
そのためひかりの目線はどこか下がりがちで、声もくぐもりがちなトーンが多く聞かれました。
しかし和也と再会してからは雲から光が射すように明るい表情が増えたりなどといった演じ分けは十分なされていたと思います。

もともと控えめな性格の渡辺麻友ですが、ひかりの気質は彼女に似合っており、ドラマの主役として目立ちすぎず、しかし必要な演技は出来ていたのではないでしょうか。

元アイドルではありながらも、2018年現在の彼女にはバラエティ番組や明るいだけのエンターテイメント作品よりも「いつかこの雨がやむ日まで」のような暗さのある作品や、時代劇、歴史ものなど一定の約束事が決められている枠組みの中での表現に適性があるのではないかと思いました。

舞台とは、舞台人とは

私はエレキギターやヴァイオリンを携えて(素人ながら)舞台に立つことがありますので、一本のドラマについてこれほど長々と論じる機会もめったにありませんから、最後はやはり「舞台に立つとは何か」について触れておきたいと思います。

ドラゴンクエストの音楽を手がけた作曲家・すぎやまこういちはかつてこのように語っていました。
「ドラゴンクエストのテーマは5分もかからず作曲できた。しかしこのテーマを思いつくまでにそれまで生きてきた55年の経験が詰まっている。その意味で、ドラゴンクエストのテーマは“5分プラス55年”だ」

舞台に立つ人はどうでしょうか。
彼らはたとえ2時間の芝居でも、本番を迎えるまでに地味な稽古を一ヶ月は続けます。
それ以前に、その人が演劇を志すに至った(おそらくは)子供のころから本番を迎えるその日に至るまでの長々と積み重ねられた歳月があります。

ひかりにとっても、個々の歌は5分であってもそれらを歌うまでの背景には、抑圧された思いを心に閉ざして生きてきた15年がありました。彼女にしてみれば、「ロミオとジュリエット」の歌はこれまでの経験、喜びや悲しみのすべてを胸中に呼び集めて歌う、5分プラス15年だったのでしょう。

ひかり役を演じる渡辺麻友にしても同様のはず。アイドルサイボーグと評されていた少女の姿はすでに過ぎ去り、モンマルトルの青春を夢見がちに過ごした女の子の姿もなく、しかしこれらの経験を精神的に咀嚼した後にひかりを演じることとなった渡辺麻友という女性その人が脚本に生命を吹き込み、音符に意味を持たせようとしてきた、この時点なりの姿がここにあると言えるでしょう。

国際的に活躍するピアニスト・内田光子はある知人にこう語ったそうです。
「演奏とは、聴き手の時間の“質”を変える行為。その時の記憶が終生あなたの脳裏から消えないなら、私はあなたの人生の“何か”を変えたことになるのです」

同じことが演劇にも当てはまるでしょう。せっかくコンサートや芝居に足を運んでも、しばらくすると劇場を訪れたことすら忘れてしまう。そんな虚しい経験をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

一方で、日比谷公会堂で聴いたオーケストラに憧れて指揮者を志し、のちに「世界のオザワ」と言われるようになる若者もいれば、渡辺麻友のように宝塚観劇をもって人生の転機とする例もあります。
このように鑑賞者の記憶の中に長らく留まり続けられるか否か、言い換えれば演技や演奏を通じて人の心に足跡を留めうるか否かは舞台に立つ人の技巧いかんであり、技巧に魂を込める人間性であり、人間性を培う経験の多寡にかかっています。

つまるところ、表現者が舞台の上で観衆に対して披露する芸は氷山の一角であり、その下には彼・彼女が経てきた過去の営みが必ず存在しているはずです。(「いつかこの雨がやむ日まで」も、あらゆるテレビドラマも、シェイクスピアから黒澤明まで様々な人材が演劇・映像表現の世界に集った、その積み重ねの果てに生み出された作品ですよね。)

天竺が「お前のすべてをさらけ出せ」とひかりを叱咤するのは、天竺の口を借りて先輩吹越満が渡辺麻友に伝えようとしていたのか・・・、真意は分かりませんが、まさにこうしたことを念頭に置けばお分かりでしょう。

私はこのドラマの第2話の感想で音楽評論家・合唱指揮者の宇野功芳の著作を引用し、貧しい定時制高校の生徒たちは普段は本を読まないが暗くてすごみのある合唱を聴かせる、しかし同じ頃に兼任していたお嬢様学校の生徒たちは難しい話は得意なのに声が明るくて薄っぺらい。心の襞は不思議なものである、というお話を紹介させて頂きました。

悲しい思い出、貧しい経験、こうした暗いもの=「雨」を抜きに素晴らしい演技・演奏ができないとしたら、「舞台」とは一体何なのでしょうか・・・。これは人間の本質に関わるテーマであり、一つのテレビドラマを通じて論じることができない事柄となってしまいます。
いつか私にもこうしたテーマに正面から向き合うことができるでしょうか。

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(舞台上のひかり=渡辺麻友。スポットライトの眩しさや手足の震えは舞台に立って初めて実感します)

むすび

ここまで目を通してくださり誠にありがとうございます。多くの皆様に感想をお読み頂き、ツイッターでは光栄にもさまざまな励ましの声を頂戴しました。
お読みくださった皆様には厚く御礼申し上げます。

渡辺麻友は、「いつかこの雨がやむ日まで」の撮影を終え、女優として大いに得るものがあったはずです。

元アイドルであった彼女は、「自分にはなにもない」、そう独白することがしばしばあったと聞いています。王道アイドルとしての道を歩ませたのも、そうした自覚からだと言われています。

しかし彼女はまだ24歳。まっさらな彼女はこれからいくらでも変わっていくことができるはず。白い布は染められる。白いページには字が書ける。彼女に潜む無限の可能性を信じて、機会あるごとに必ず劇場に足を運び、その成長と内面の充実を確認する、温かくも厳しいファンは確実に存在します。

渡辺麻友も、その思いに応えようと、すべての機会を捉えて演技力と人間性の向上に努力するはずです。
それは、視聴率の増減やCDの売上よりももっと大きなものをファンから託されていることの証であり、彼女にとって「生きている」足跡を私たちの心に留めるための果てしない旅路でもあります。

「いつかこの雨がやむ日まで」を見終えた今、私には渡辺麻友の女優としての成長をこれからもずっと見守ってゆける、そんな長年にわたるであろう楽しみが増えたような気がします。この記事をお読みくださった皆様とともに、私もこの女優の軌跡を追う歩みを続けて行きたいと考えています。

猛暑の夏に始まったドラマも、すっかり秋らしくなった頃に終幕となりました。
おそらく制作陣の皆様も記録的な炎天下での撮影は大変だったことでしょう。
舞台にかける一人の女性の秘めた情熱、彼女を見守る青年の思い――。様々な心の揺れ動きをカメラを通じて見事に切り取ったスタッフの皆様、出演キャストの皆様、そして主演女優・渡辺麻友に心より敬意を表し、一連の記事のむすびといたします。

ここまで長いお話となりましたが、お読みくださりありがとうございました。



関連記事:渡辺麻友主演「いつかこの雨がやむ日まで」闇深い第1話の感想。
渡辺麻友主演ドラマ「いつかこの雨がやむ日まで」第2話の感想

注:本作品は【フジテレビオンデマンド】 でも配信されています。登録すると1ヶ月無料とのこと。