2018年8月4日からフジテレビ系列で放送中の渡辺麻友主演ドラマ「いつかこの雨がやむ日まで」。
引き続き、主観ばかりですが第5話について気づいたことを書いていきます。
ウミヘビは小さくておとなしいのに危険な海を優雅に生きているのは、猛毒を持っているからだそうです。
転じて、「お客に広い世界と優雅な情感、そして毒を与えたい」のが自らをウミヘビに擬する天竺要の狙いだったとか。
芸術の毒。
おそらく天竺要(吹越満)自身はそういう設定になっていないでしょうし脚本家も全く想定していないでしょうが、私はどうしても「毒」という言葉からワーグナーを思い出さずにはいられませんでした。
リヒャルト・ワーグナー。「ニーベルングの指環(四部作)」、「トリスタンとイゾルデ」、「ローエングリン」、「パルジファル」などのオペラ(彼自身は「楽劇」と呼んだ)で19世紀ロマン派を代表する作曲家である彼は創作に打ち込み、その果てにバイエルン国王ルートヴィヒⅡ世をパトロンとしてバイロイトに自らの作品を上演する専用の劇場を建設してしまいました。
ワーグナーの作品には強い毒性があることで知られています。映画「地獄の黙示録」で用いられた「ワルキューレ」や「ローエングリン」より「第一幕への前奏曲」をYouTubeなどでお聴きいただければその理由はなんとなくご理解頂けると思います。
結果として、多くの「ワグネリアン」と呼ばれる心酔者を生み、ニーチェやボードレールなど19世紀の文化的指導者に影響を与え、後年にはヒトラーが政治利用してしまいます。
前述のルートヴィヒⅡ世も最期は精神疾患により命を落とすことになります。芸術というものがともすれば狂気=毒と表裏一体であることが伺われるエピソードです。
「いつかこの雨がやむ日まで」にはワーグナーのことは一切出てきません。
したがってここに書いてあることはドラマの内容を私が一人で果てしなく敷衍したにすぎません。
しかし天竺要が「お客に毒を」と考えていたという話を聞くと、芝居=フィクションでしか伝えることのできないメッセージ(何らかの狂気?)を社会へ吹き込もうとしていたのだろうと思ってしまうのでした。そういう表現意欲がなくては劇団の演出家など務まらないでしょうし・・・。
兄・幸一郎が株で損失を出し、銀行からの借り入れをその返済にあてていたことが判明。
お店はそのせいで経営危機に陥っていました。
代々続いてきた店の看板を守るために和也は奔走します。
同じ頃、ひかりも生活のためキャバクラでの勤務を続けていましたがついにある日、劇団員であることを特定されてしまいます(これは気まずい!!)。
このドラマでは、伝統の味やミュージカルといった「芸術」(言い換えると、現実の生活から遊離したもの)が随所で顔を出す一方で、そうしたものを維持するために必要となる「生活」(要するにお金ですね)の問題が描かれています。
「娘との結婚が融資の条件だ」、そう沙耶の父が和也に言い渡す場面には、いかにお金というものが私達の生活を縛っているかを思わざるを得ませんでした。
こうした辛さを経て、ついに和也とひかりは結ばれます。
同じ苦しみを経験したもの同士、お互いの心が重なり合うのは当然と言えるでしょう。
今回は総じて和也(堀井新太)の真摯な演技が光ります。
終始控えめながらもひかり(渡辺麻友)も目の動きや表情が多くのことを伝えていました。
「芸術と生活」「大きめの演技と控えめの演技」「過去の重みとこれからに向けての再生」など、いくつかの対照が見られるのがこのドラマ。
次回以降では「狂気」がクローズアップされてくる模様ですが、対照となるのは何なのでしょう。それとも「狂気」はそれ自体単独で走り始める(そのまま最終回まで突っ走ってしまう)のでしょうか・・・?
この言葉にギョッとした方も多かったのではないでしょうか。
記事冒頭でワーグナーについて触れました。
彼は借金を踏み倒して逃げたり(逃げた先で窮乏のあまり飼い犬にも見放されたとか)、指名手配犯となって亡命した先で援助を申し出た恩人の妻と不倫関係になり、しかもその経験からドロドロした愛を描いた「トリスタンとイゾルデ」を作ったりと、その人生はやりたい放題でした。
天竺要もエゴの塊というのか、かなり奔放な人物でした。
関連記事:渡辺麻友主演「いつかこの雨がやむ日まで」闇深い第1話の感想。
渡辺麻友主演ドラマ「いつかこの雨がやむ日まで」第2話の感想
注:本作品は【フジテレビオンデマンド】 でも配信されています。登録すると1ヶ月無料とのこと。
引き続き、主観ばかりですが第5話について気づいたことを書いていきます。
芸術の毒
今回の放送では劇団ウミヘビの由来が明かされていました。ウミヘビは小さくておとなしいのに危険な海を優雅に生きているのは、猛毒を持っているからだそうです。
転じて、「お客に広い世界と優雅な情感、そして毒を与えたい」のが自らをウミヘビに擬する天竺要の狙いだったとか。
芸術の毒。
おそらく天竺要(吹越満)自身はそういう設定になっていないでしょうし脚本家も全く想定していないでしょうが、私はどうしても「毒」という言葉からワーグナーを思い出さずにはいられませんでした。
リヒャルト・ワーグナー。「ニーベルングの指環(四部作)」、「トリスタンとイゾルデ」、「ローエングリン」、「パルジファル」などのオペラ(彼自身は「楽劇」と呼んだ)で19世紀ロマン派を代表する作曲家である彼は創作に打ち込み、その果てにバイエルン国王ルートヴィヒⅡ世をパトロンとしてバイロイトに自らの作品を上演する専用の劇場を建設してしまいました。
ワーグナーの作品には強い毒性があることで知られています。映画「地獄の黙示録」で用いられた「ワルキューレ」や「ローエングリン」より「第一幕への前奏曲」をYouTubeなどでお聴きいただければその理由はなんとなくご理解頂けると思います。
結果として、多くの「ワグネリアン」と呼ばれる心酔者を生み、ニーチェやボードレールなど19世紀の文化的指導者に影響を与え、後年にはヒトラーが政治利用してしまいます。
前述のルートヴィヒⅡ世も最期は精神疾患により命を落とすことになります。芸術というものがともすれば狂気=毒と表裏一体であることが伺われるエピソードです。
「いつかこの雨がやむ日まで」にはワーグナーのことは一切出てきません。
したがってここに書いてあることはドラマの内容を私が一人で果てしなく敷衍したにすぎません。
しかし天竺要が「お客に毒を」と考えていたという話を聞くと、芝居=フィクションでしか伝えることのできないメッセージ(何らかの狂気?)を社会へ吹き込もうとしていたのだろうと思ってしまうのでした。そういう表現意欲がなくては劇団の演出家など務まらないでしょうし・・・。
(画像:FODよりキャプチャ。以下同。劇団名の由来が明かされる)
芸術と生活
他方、和也の生活には影が忍び寄っていました。兄・幸一郎が株で損失を出し、銀行からの借り入れをその返済にあてていたことが判明。
お店はそのせいで経営危機に陥っていました。
代々続いてきた店の看板を守るために和也は奔走します。
同じ頃、ひかりも生活のためキャバクラでの勤務を続けていましたがついにある日、劇団員であることを特定されてしまいます(これは気まずい!!)。
このドラマでは、伝統の味やミュージカルといった「芸術」(言い換えると、現実の生活から遊離したもの)が随所で顔を出す一方で、そうしたものを維持するために必要となる「生活」(要するにお金ですね)の問題が描かれています。
「娘との結婚が融資の条件だ」、そう沙耶の父が和也に言い渡す場面には、いかにお金というものが私達の生活を縛っているかを思わざるを得ませんでした。
こうした辛さを経て、ついに和也とひかりは結ばれます。
同じ苦しみを経験したもの同士、お互いの心が重なり合うのは当然と言えるでしょう。
今回は総じて和也(堀井新太)の真摯な演技が光ります。
終始控えめながらもひかり(渡辺麻友)も目の動きや表情が多くのことを伝えていました。
沙耶(筧美和子)は和也のフィアンセとして自分につなぎとめておこうとする心理を大きめの動きで表現しようとするのと対照をなしています。
皆さんもご存知のように渡辺麻友はどちらかと言えば控えめな性格。
このドラマで主演に抜擢された理由はこの辺りにあったのかもしれません。
「芸術と生活」「大きめの演技と控えめの演技」「過去の重みとこれからに向けての再生」など、いくつかの対照が見られるのがこのドラマ。
次回以降では「狂気」がクローズアップされてくる模様ですが、対照となるのは何なのでしょう。それとも「狂気」はそれ自体単独で走り始める(そのまま最終回まで突っ走ってしまう)のでしょうか・・・?
蛇足
「麻美のお腹の子は天竺要」。この言葉にギョッとした方も多かったのではないでしょうか。
記事冒頭でワーグナーについて触れました。
彼は借金を踏み倒して逃げたり(逃げた先で窮乏のあまり飼い犬にも見放されたとか)、指名手配犯となって亡命した先で援助を申し出た恩人の妻と不倫関係になり、しかもその経験からドロドロした愛を描いた「トリスタンとイゾルデ」を作ったりと、その人生はやりたい放題でした。
天竺要もエゴの塊というのか、かなり奔放な人物でした。
彼の人物像が物語後半でどんどん明かされていくのか、注目していきたいと思います。
関連記事:渡辺麻友主演「いつかこの雨がやむ日まで」闇深い第1話の感想。
渡辺麻友主演ドラマ「いつかこの雨がやむ日まで」第2話の感想
注:本作品は【フジテレビオンデマンド】 でも配信されています。登録すると1ヶ月無料とのこと。
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